2025年度副主将を務めさせていただきます
新4回生山本聖也と申します。
まず初めに、日頃より京都産業大学男子ラクロス部VIGOROUSを支えてくださっているOBOG、保護者、ラクロス関係者の皆様、この場をお借りして心から感謝申し上げます。ありがとうございます。今後も変わらぬご声援の程よろしくお願いいたします。
どのような趣旨でブログを書くのか説明がなかったため好きなように書きたいと思います。なので私のこれまでの人生について話そうと思います。滋賀県大津市に山本家の一人っ子として生まれました。保育園までの記憶はありません。小学校に上がってからは普通のガキンチョでした。勉強もそこそこ父の影響で野球を始めるもそこそこでした。
そのまま地元の中学にあがり京都のクラブチームで野球を続けました。学校の方はと言うと自慢じゃないですけどちょっとやんちゃをしていました卍テストでも平均よりも少し高いぐらいで毎回親に怒られてばかりでした。この時期から反抗期が始まりました。中学1年の冬に父は私在籍していたチームの指導方針が気に食わなかったらしくチームを辞めろと反抗期の私に言いました。ちょっと反抗したけど負けて滋賀のクラブチームに移籍しました。ですが今では辞める事になって正解だったと感じています。ここから中学生活はあっという間にでした。一向に上がらない成績、いつの間にか終わったヤンチャ。野球で全国に行ったり、いろんな大会で優勝したり、反抗期と中学校を卒業したりしました。
ではここから高校編です。私は京産の附属高校に進学しました。野球部でブイブイいわしたろうと春休みはとにかくバットを振り込みました。その甲斐あって1年からたくさんの試合に出れました。学校の方はと言うとクラスは始め、あまり話せる人がいなくて馴染めそうになかったです。ハゲの胸張りながら風切って歩いていたのが原因だったかもしれないです。このクラスにはオフェンスリーダーの開主もいました。ちっちゃくて可愛い子でした。1年生の終わり頃コロナが始まりました。テストが無くなって部活も無くなりました。そのまま二年生になりコロナ禍の学校生活が始まりました。行事も少なかったのであまり楽しい記憶が残ってないです。夏の大会では3回戦で乙訓に負けました。高2の秋、私の腰が腰痛分離症と診断されました。ここからの4カ月は地味でしんどかったです。なんとか腰を治して春から最後の高校野球が始まりました。結果としては一回戦で負けてしまいました。悔しいと言うよりショックでした。それからしばらくは野球部のメンバーの顔を見ると毎回泣きそうになってました。私自身としてはいろいろあった野球人生、悔いがないことはないがやれる事は全てやったと思います。さて附属高校なのでそのまま大学に上がりました。
大学編スタートです。ここまで見ている人はいるのでしょうか?それでは私がラクロス部に入ったきっかけを話します。それは高校時代の野球部の先輩のじゅんせい君です。このじゅんせい君とは中学の頃から縁があって知り合いで色々お世話になっていました。そしてこのじゅんせい君がラクロス部に入っていました。サマーでの写真をストーリーで見て「俺もこれやろ」となりました。そして新歓祭には行かずに入部しました。この際に同じ野球部から開主、小寺、香西、小幡が一緒に入部しました。始めはクロスを扱うのが難しすぎて先輩達が天才に見えました。クレードルすら出来てなくてとても不安でした。ですが人の子練習すれば上手くなるのがこの世のカラクリ、えびマヨ大先生のおかげでクレードルを習得しそして迎えたフレッシュマンズキャンプ。ここで山本聖也の名が関西を轟かしました。圧巻のパフォーマンスでオールフレッシュマンを獲得。吉田純基、立川朋幸、宮崎圭一、錚々たるメンバーの中に名を連ねここから私の輝かしいラクロス人生が始まるはずでした。そんなには甘く試合では点が全然取れなくて、悔しい日々が続き、サマーの前日で筋挫傷を起こして欠場、予選敗退。ウィンターを含むそれまでの試合でも点は取れず結局一年生を終えました。(いや雑魚すぎワロス※けつ毛ボイス)年明けの練習はりおと共に戦い、りくとには裏切られるといった事もあったが何とか乗り切る事ができました。つま恋では陰毛をかけてオフェンス陣は何とか点を取って勝利しようとしましたが全敗。そして迎えたゴールデンウィーク。関西学院との試合で僕は初めて得点を取る事が出来ました。嬉しかったですね、今までに頑張ってきた事が報われると言うか点を取ったらみんなが集まってくれるあの感じ大好きです。初めて迎えたリーグ戦、初戦の桃山戦でちょっと出ましたがパスを回して終了。次戦の合同戦でリーグ戦初得点を取りました。後の試合は出場がなく、チームは2部へ自動昇格をしました。この頃から僕は龍が如くにハマり出しました。桐生一馬の一本筋の通ったまっすぐな生き様に惚れ惚れしました。(推しは春日です)話はラクロスに戻り、春チームではオフェンスリーダーを任されました。今思うと全然機能してませんでしたね。今なら出来るとは言いませんがもっとより良く出来る自信はあります。そして迎えた最後のつま恋、僕たちは去年の反省を生かして練習後に6:6を入れたりなどして挑みました。結果はひとつの引き分けを挟んで全敗でした。内容的には前年より良かったものの一勝も出来なかったのは悔しかったです。3月、つま恋が終わってこれからリーグ戦に向けてやっていこうと言う時に僕はbチームでした。このチームは上からachieve、effect、beyond、fleshman、に分かれていて、二回生以上はbeyondより上に所属しているので1番下のカテゴリーになります。実力が足りていなかったのは自覚していたのでこれまで以上に貪欲に取り組みました。そして6月にチャンスがやってきました。もともと私は関東遠征のメンバーではなかったのですがそらさんが体調不良のためどうやら厳しいみたいな話があり出発日に前日の夕方でしたが新幹線を取り急遽招集となりました。アタックが3人しかいなかった事もあり常に試合出れたのは幸せでした。2日を通して3得点1アシストでチームにそこそこ貢献できました。これを機に7月からはeffectに昇格できました。しかしこれがピークでした。それ以降可もなく不可もないプレーが続き、リーグ戦に突入しました。立命館、追手門はベンチ入りは出来ませんでしたが公立戦はベンチインできました。あまり出場時間は長くなかった中で放った渾身の右捲りもゴーリーに阻まれました。その後のリーグ戦もパッとした活躍もないままに終えました。
入れ替え戦までにしばらく日にちがあったためベンチ入りするため、点を取るために必死にアピールしました。ですが当日はスタンドにいました。ベンチメンバー発表のラインが来た時はケータイ投げたのを覚えてます。悔しかったあの胸が小さくなるような痛みは今も思い出す事ができます。あの思いを知った事は僕にとって良かった事だと思っています。というより良かったと思えるようにしなければならないと思います。今まで野球をやり続け、大学からはラクロス、ずっと失敗の方が多い人生でしたが、やれる事をやってきた自負があります。だからこそ僕は僕のを事幸せにしてやりたい。僕は自分が報われてほしい。そのための努力は惜しまないし、このラスト一年を必死に後悔の無いように生きたいと思います。
長くなりましたが最後に京都産業大学体育会男子ラクロス部VIGOROUS の応援をよろしくお願いします。必ず、一部昇格してみせます。